利休蔵について

堺の歴史と伝統を引き継ぐ酒蔵。
こだわりの製法で
厳選された素材を生かす。

ご存知でしょうか。
かつて堺が日本有数の酒どころであったことを。

現在、堺の製造業といえば、刃物や自転車、線香、和ざらし、手織段通などが知られています。しかし、大正時代までは堺の製造業の第一位を酒造業が占めていたことを知る人は、もうほとんどいません。

堺の酒造業の始まりは中世・室町時代といわれ、江戸時代の初めには京、大坂、奈良と並んで、堺は全国的な酒どころとして聞こえていました。当時、酒好きの江戸っ子たちに“下り酒”としてもてはやされた上方の酒を運んだのも、やはり堺の商人が考案した「菱垣廻船」です。

明治以降も、堺の酒造業者の鳥井駒吉(現アサヒビールの創始者)が瓶詰め酒を考案し(それまで日本酒はすべて樽詰め・小売りは量り売り)、流通の革新に貢献。また、醸造改良試験所や醸造組合も堺の酒造業者が他に先駆けて設立するなど、日本酒の普及、業界の発展を牽引してきました。

ところが、堺の酒造業は大正時代をピークに、昭和に入ってから下降を続け、明治13年には95軒もあった蔵元が昭和8年には24軒まで減少し、昭和46年を最後に堺の酒づくりの火は消えてしまいました。

“自由都市、町衆文化の町”の輝きと活力を
もう一度、堺に

堺市は政令指定都市として規模的には大きく成長しましたが、地方の地盤低下のなか、例外ではなく活気を失いつつあります。そしてまた、人口が増え市域がどんどん拡大するにつれ、歴史や文化、伝統への関心が薄れ、まちのアイデンティティも失われつつあるのが現状ではないでしょうか。

堺は室町時代から戦国時代にかけての中世16世紀、遣明船の発着地として栄え、豪商たちが「納屋衆」や「会合衆(かいごうしゅう・えごうしゅう)」と呼ばれる自治組織を形成して自由と自治を守り、日本一の先進都市を築いて、さまざまな文化を生み、育んでいました。

しかし、今日ではその栄華も旧市街に残る寺社、旧跡にかすかな面影をとどめるだけで、“黄金の日々”をしのぶよすがはほとんどありません。

私達が堺の地に酒蔵を再建し、堺の地酒の復興を企図し、さまざまな活動を続けてきたのも、かつての会合衆の気概にならい“自由都市、町衆文化の町・堺”の輝きと活力を取り戻したいと願うからに他なりません。私達が送るお酒が活力ある町づくりに少しでもお役に立ち、町づくりのシンボルにしていただければ…そんな思いを込めて酒名も、この地に生誕し茶の湯を確立した利休翁の名を借りて「千利休」とさせていただきました。

やっと、夢がひとつ実りました。
「千利休」に皆様の愛とお力添えを。

“堺の地に酒蔵を”と決意し、酒造免許の取得や用地の確保に奔走して約10年。熱意が天に通じたのか、2014年、私たちの夢がようやく実りました。

初めての蔵出し以来、大変なご好評をいただき、小さな蔵で酒造量も限られるところから、常にお待たせしているような状態が続きました。

こうしたご不便をおかけすることなく、さらに高品質のお酒をお届けするために2016年、現在地に酒蔵を移転。経験豊かな酒造りスタッフを加え、設備も充実させ、“良酒”づくりに専心しています。

こだわり抜いた米。
兵庫県産の山田錦。

千利休で使われる米は兵庫県産の山田錦。兵庫県は山田錦の生産量日本一を誇り、品質においても日本TOPクラスと言われています。

その理由は兵庫の自然条件が山田錦の栽培に非常に適しているためです。六甲山の北側の山間部に広がる山田錦の産地は絶好の気候条件を備えており、温暖で日照時間が長く、降水量は少ない。それでいて、六甲山の山々が暖かい空気を遮るので、登熟期の夜温は低く、1日の温度差が10℃を越えるため、稲の実りが良くなります。

また、土壌についても、リンやマグネシウムなどを豊富に含むので、粒張りが良く、心白が鮮明になるといわれています。

金剛山系の湧き水が
千利休を造り出す。

仕込み水は地元、大阪の金剛山系の湧き水を使用。歴史上の言い伝えでは、霊峰と知られる金剛山で修行する行者達がこの湧き水を飲むことで苦行を乗り越えてきたといわれています。

また、地元でも名水として愛され、酒をはじめとする、豆腐や蒟蒻など地元の名産を作る源となっていました。この歴史を育んできた名水が千利休を造り出しています。